『幸せ』を得るために必要なもの

最近、ふと考えることがあります。それは『幸せ』についてです。

今、私は確かに幸せだと思います。住む家もありますし、食べるものに苦労することもありません。着るものだってあります。それどころか共に生きていくパートナーもいますし、たくさんではありませんが蓄えもそれなりに。

でも、その『幸せ』ってどこから来ているのだろうかと考えたんです。とりあえず身近なことから考えてみました。

たとえばより豊かに生きるためには仕事に行ってお金を稼がないといけない。で、仕事に行くと多かれ少なかれ自分の時間や家族と過ごす時間を削ることになります。
(まぁ、それが良いか悪いかは別の話だと思うのであえてそこには触れないでおきます)

この例では自分や自分の家族の中だけで終わる話です。でも実際はそれだけでは終わらないと思うんですよ。より便利に生活するためには…って考えると、資源を犠牲にしていたり環境を犠牲にしていたり。美味しいものを食べたいとしたら、たとえばお肉や魚、野菜といった動植物を犠牲にしてますし。

『犠牲』と表現するとさも悪いことのように聞こえるでしょうが、ここでは 犠牲=悪い として考えてはいません。『犠牲』はあくまで『犠牲』であって、良くも悪くもなく単に『犠牲』として考えています。そう、『犠牲』自体は良いも悪いもないのです。

そうして考えていくと私達の『幸せ』って様々なものを犠牲にしているんだなぁって思ったんです。資源だったり環境だったり自然だったり時間だったり。それぞれの気持ちだったり、命だったり。と、同時にそれらの『犠牲』を、もしかしたらないがしろにして生きてきているんじゃないかとも思ったんです。そうして様々な『犠牲』の上の『幸せ』なのに、自分にとって都合の悪いある点だけを見て「私ってこんなに不幸」ってどこかで『犠牲』の上でふんぞり返っているんじゃないかって。

確かに悪いことや嫌なこと、つらいこと、耐え難いこと…などなど誰にだってあります。現に今、以前よりは軽くなってきているとはいえ、私もそういうものにさいなんでいる1人です。こんな話をしているんならさぞおエラい方なんだろうって思うかも知れませんが、残念ながら「私は不幸」って思ったことがないなんて言えません。そんな崇高な人間ではないですから。それどころか逆に叩けば埃ばかりが出る人間だと思います。馬鹿なことも愚かなことも人並みにやってますし、「私ってなんて不幸な…」って何度も何度も思ってきてますし。

…と、話が逸れてしまいました。

大きかったり小さかったり、目の前のものだったり自分の知らないものだったりと、そんな様々な『犠牲』の上に成り立っている『幸せ』に対して、しないといけないんじゃないかって思うことがあります。それは『感謝』です。『感謝』というと「ありがとう」ということかとなってしまうのですが、それは何となくありきたりかなぁ…て。確かに「ありがとう」と思うことは大切だと思んです。でも漠然と「ありがとう」と思うのは何となくおこがましいというかなんというか…。そこで自分の『幸せ』はどこから来ているのかって思いをはせてみるのはどうかなぁ…って思ったんです。自分の周りの見落としている小さな『幸せ』を探して、その『幸せ』のルーツを探してみる。『幸せ』の裏で『犠牲』になっているものに思いをはせる。それも『感謝』のひとつの形のような気がするんです。

今の『幸せ』を得るための『犠牲』に思いをはせて『感謝』する…。こういう考え方、どうでしょうかね?
私としては悪くないともうんですけれど(-_-;

「『幸せ』を得るために必要なもの」への2件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です